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京の都の春は遅い。山々に囲まれた内陸部の盆地なせいでただでさえ冬が長く、春と言えばの“桜前線”も、その北上の途上で…気温の上昇よりも暖流(黒潮)の暖まりようが追い抜くせいで、まずは関東地方の桜たちを先にほころばせてから近畿へ戻って来るという“置いてかれぶり”なのだとか。そんな気候である関係から、都の人々は…まずは先んじて春が訪れた他の地方から献上される“春の兆し”を眸や舌で味わった後、待って待ってそれからやっと、身近な山々が淡い緋色に彩られるのを愛でるという順番になる。そんな段取りにて冬の厳寒から解放されるような土地の人々だからこそ、ある意味で辛抱強くて奥行き深い人格にもなるというもので。…あたしゃ短気だし我慢するのも人一倍嫌いなんだよという京都の方がいらしたら ごめんなさい。(おいこら)
昼間が一番短い“冬至”を限(キリ)に陽は長くなる。とはいえ。夕陽が沈んで宵がやって来る時間帯が遅くなるので、成程なァ日が長くなったなァと思うのは、その宵にこそ元気になるような人種だけで。陽が明ける時刻の方は冬の深まりと共にますますと遅くなるばかりであり、朝の早い者にはそれからが辛い“冬本番”になる。夏なら既(とう)に明るくなって陽光も眩しく満ちる頃合いでも、黎明の青さえない真っ暗な未明は長々と続き、最も寒の厳しい時期にあたる立春を越えてから、やっとのことで朝の訪れの方も日に日に早まり始める。
「………お。」
深色の短袴に小袖という、いかにも起きぬけらしき軽装にて。欠伸混じりに うんと大きく背を伸ばしながら、無作法にも立ったまま、濡れ縁の際の御簾を一枚めくって出て来たところ、冬枯れの庭の端の方に小さな人影が見えた。
「早いな。」
知らぬ相手でなしと挨拶をすっ飛ばして声をかければ、相手へは思わぬ間合いだったためか、驚いたように薄い肩をかすかに跳ね上げたようだったが、
「あ、葉柱さん。」
肩越しに振り向いた幼いお顔が“ほぉっ”と安堵の息をつく。それから、改めてきちんとこちらへ向き直り、お膝に小さな両手を揃え、おはようございますと丁寧にお辞儀をする彼は、この屋敷に行儀見習いと咒のお勉強をするために寄越されている書生くんで、名前を小早川瀬那といい、クセがあってか あちこちちょっぴり跳ね上がっているつややかな黒髪を、前髪上げをするどころか結ってもないままの男の子だが、いくら小さいとはいえ、元服の年齢は一応過ぎているお年頃。自分たちは陰陽の咒や術を扱うという人知を越えたところに関わりの深い人間だから、世間の“一般常識”とやらの枠にこだわらず、奔放に当人の好きなようにしているのが一番なのだよと、彼の師匠が言ったせいで、どんな風体(なり)でいても構わんとされていて。それでのこの拵えだそうではあるが、
“この愛らしい童顔が他の貴族たちのように額髪を上げてきりきりと結髪しても、似合うとは思えんがな。”
たかたかと縁側まで駆け寄って来た少年の、稚(いとけな)くも愛くるしいお顔を見ながら、ついつい正直なところを思っていると、
「お越しだったのですね、気がつきませんでした。」
不意を突かれた格好の客人へと、いつもの人懐っこい笑顔を惜しみなく向けて来る。いつだってお館様の傍らに控えておいでで、時には主人と一緒になって少年をからかったりもなさりつつ、おおらかに優しく構って下さる人。男臭くて屈強な体躯に精悍な面差しという、いかにも頼もしき青年の風貌を保った姿をしているが、実は…そのお館様と言霊(ことだま)の契約をした蜥蜴の一門の惣領、所謂“式神”の化身なのだと重々知っておりながら。それでも“年上のお兄さんへ”という、目上への丁重な応対をしてみせるセナであり、
「ああ、遅くに来たもんだからな。」
ちょっぴり寝乱れた漆黒の髪を手櫛で無造作に梳きながら、蛭魔が“子供は早く寝ろ”と彼を寝所へ追い立てた後の訪問になったので、擦れ違ってしまったのだろうとの応じをしてから、
“…ずぼらな奴だよな、まったくよ。”
こちらもこちらで、こっそりと苦笑を洩らす葉柱で。勿論“ずぼらな…”と差したのは、今の今 直に対面している、人懐っこくも愛らしいこの少年の屈託のなさへではなく。庭先の様子を見て来いと、一緒にくるまっていた温かい褥(しとね)から傍若無人にも自分を蹴り出したお館様の方を指してのことであり、
“この子だってのは判っていたな。”
人にも邪妖にも敵の多い彼のこと、自身を狙っているような手合いにも心当たりは沢山あろう。とはいえ、そんな怪しい者の気配だったなら…自分を見に立たせるどころか、わざわざ起こすまでもなかった筈で。半分寝ながら簡単な咒を操ることで翻弄して撃退し、それで終しまいとした彼でもあろう。その方が穏便だし、文字通り“片手間”で済むからだ。だが、探ってみた気配の正体はこの子であり、しかも何か探しものでもしているようだからと…そこまで嗅ぎ取った上で、自分の代わりに手伝ってやれという采配を、
『…見て来い』
そんな短い一言と斟酌のない一蹴りで片付けた蛭魔だった…ということならしい。成程、ずぼらですよねぇ。でもでも、たったそれだけのやり取りと此処にいたセナくんの姿という情況とだけで、そういう運びだったのかとちゃんと察してしまえる頭目さんだって、大したものなんですけれど。(苦笑)まま、今はそういった“以心伝心”な呼吸の話はさておいて。
「こんな早くにどうしたよ。」
主人が居室にしている広間のぐるりを、そのまま回廊のように縁取る濡れ縁の際へ、危なげなく中腰になって屈み込み、庭先に立つ少年との目線を合わせてくれた葉柱へ、セナは躊躇なくお返事を返した。というのが、
「あのあの、赤ちゃんの声がしたんですよう。」
「赤ちゃん?」
繰り返した葉柱へ、いかにも子供っぽい仕草にて、小さな顎を引いて こくりと頷いた少年は、
「どこからか間近いところから、赤ちゃんが泣いているような声がしたんです。」
それも引っ切りなしにと付け足して。なればこそ、急いで探してあげないととでも思った彼なのだろう。
「こんな場末に、しかもまだこんな寒い明け方なのに。そんな小さなお子さんを連れた方が、道に迷ってウチの庭へ迷い込みでもしたのかしらって思って。」
そんな難儀に遭ってはさぞかし大変でしょうにと、まだ見ぬお母さんへの同情から眉を下げて見せたセナだったが、
「それは…、」
「猫だな。」
話を聞いていた葉柱の言葉尻を横取りし、放るような応じが返って来たのへ、
「お館様。」
セナが視線を上げて嬉しそうな声を上げる。それへと合わせて自分の肩越し、こちらも振り返ってみた葉柱だったが、直に見える範囲には誰の姿もないままで。丁度、頭目さんの真後ろの、御簾と御簾の狭間の柱へと内側から凭れているらしい存在が放った声。金髪に金茶の眸、真珠のような真白き肌という、倭国人にしては そりゃあ珍しき配色の風貌をした、この館の若き主人が、やっとのことで目を覚まして起き上がったらしく。御簾越しなので影だけしか見えてはいないのに妙な存在感があるところは、今世の帝から直々のお召しを賜った、高名にして うら若き術師殿たる威容というものが滲み出てのことであろうか。それはともかく、
「猫…ですか?」
彼の言いようを反復し、キョトンとして小首を傾げた少年へ、影だけ声だけのお館様は頷いて見せて、それからそれから、
「〜〜〜〜〜♪」
声というより音のような。鼻の奥に籠もらせながらの、喉の半ばに甘ったるい響きを含ませた…赤子のむずがりの声にもよく似た“ふな〜ぅ”という鳴き声を真似て下さった。ほんのちょっぴり尾を引いたのその声を、微妙に高さを変えながら二声三声と続けたところが、
「…あ。」
最近の春めきにいつの間にか勢いを盛り返して青さが戻り、冬枯れしつつも居残っていた白っぽい芒草と混じって“半白”の様相を呈している茂みの足元から…かさこそと現れた影が1つ。頭と耳は真っ黒で…まるで黒い耳つき帽子をかぶっているようなお顔の、白地にブチのまだ少し小さな猫が、キョロキョロしながらも誘われたように出て来たではないか。こちらさんもやはり、鼻にかかるような甘い声で“うな〜ぅ”と呼びかけるように鳴いているから、
「…成程、これが赤子の声に聞こえたか。」
「みたいですね。」
同類の雌でも探してのことか、自分の目線にのみ慎重そうにゆっくりと辺りを見回していた小さな猫は、しばらくしてから…はっと自分を見つめる人間たちの気配に気づいたらしく。無言のままに踵を返すと、出て来た茂みの向こうへそそくさと消えていってしまった。きっと物凄くバツが悪い思いがしたんでしょうね。いやいや、プライドが無いって訳じゃあなかろうが、それでも人間ほど重大なもんとはしてないだろから、ケロッとしていることだろさ…などなどと、ちょっとした感慨を語り合ってた二人の背後。かさりと静かな音を立て、御簾の端が僅かに斜めに押し開けられていて。
「お館様。」
襦袢のように袷だけをまとった上へ…黒の従者殿から寝具代わりにと掛けてもらったらしき狩衣を、しどけなくも肩に羽織って立っているその姿。柱に背を預けたままという斜(はす)になっているせいか、それとも御簾と室内の陰にその輪郭が呑まれてしまっているせいか、ほんのりと明け始めた黎明の蒼の中に、滲んで掠れていってしまいそうな風情に見えなくもなく。いつだって苛烈なくらいの存在感がある方なのに、今朝はまたどうしたことかと小首を傾げた書生くん、
“お館様はまだ眠たいのかも?”
どちらかと言えば宵っ張りな方であるし、やんごとなき階層の大人は、夜にこそ何やかやあって忙しく、日中は昼まで寝ているものと聞いているし…と、彼なりの納得へと辿り着き、
「お騒がせをしました。」
ごめんなさいですと丁寧に頭を下げると、まだ早いのでボクももう一回寝て来ますと、踵を返して去ってゆく。察しがいいのだか、いやいやまだまだ子供だから何にも他意はないのだろうよと、とことこと母屋の奥の納所の方へと戻ってゆく小さな背中をほのぼのと見送りながら、
「なあ。」
「んん?」
互いに相手を見やるでないまま、短い声を掛け合った、こちらさんは“大人”のお二人だったが、
「なんでお前、塒(ねぐら)に帰りたくねぇんだ?」
この何日か、やけに頻繁に此処へ来てるしよ。昨日は昼の間に一旦帰ったが、それでも寝てる時間帯な筈の昼間っから居る時だってあるだろうが。そんな風に問われて、だが、
「? 別に帰りたくないって訳でもないが?」
意外なことを訊かれれば、測りかねた部分の真意をもっときちんと知りたくもなる。屈んでいたところからすっくと立ち上がった葉柱が、背後へと振り返ったその鼻先にて。斜めに開いていた筈の御簾がはたりと閉ざされてしまい、
「そういや、お前には決まったメスがいたんだったよな。」
そんな声だけが突き放すように聞こえて来た。
「いねぇよ。」
「いいや、いた。」
時折クセのある脂粉の香りを衣紋や髪に染み込ませたままで、術師からの召喚に応じ、此処を訪れていた彼だったことを思い出した蛭魔であったらしく。それへと、
「決まった相手ってのはいなかったって。」
特にムキになることもなく、さばさばと言い返せるのは、それが紛れもない真実だから。疚しいものほど隠し通せない馬鹿正直な奴だということは、癪ながら蛭魔が一番良く知ってもいる。大方、心からの絆までは結んでいない相手だから“決まった相手”ではないという認識になっている葉柱なのであろうと思われて、
「どっちにしたって…女がいるには違いなかろうよ。」
春ってのは虫や獣にとっては誰彼構わずそんな気持ちになっちまう時期だもんなぁ、さては そういう奴が待ってるんだな、色男ぶって面倒がってんじゃあねぇっての。からかうような攻撃的な物言いはいつものこと。取るに足らない些細な発端から、噛みつき合うような勢いの喧嘩腰な言い争いへ発展することも珍しいことではなくて、
「これでも一応は一族の惣領なんだから、しょうがねぇだろうがよ。」
跡継ぎってのか、血統を絶やさないように子供を残さにゃならん身の上だ。それに、そういうのは何もこの自分に限った話じゃあない、生き物が生き物であるための本能なんだし、と。論理に適った言いようを返せば、
「じゃあ、そのお務めのためにも戻ってやりゃあいいじゃねぇかよ。」
彼にしては珍しくも、相手の言いように逆らわぬまま、その通りだから尊重してやろうぞという言いようが返ってきて。だが、その声に込められた棘のような何かが…何だか無性に気になってしようがない。何をそんなに怒っているやら、さっぱり見えないから居心地が悪い。
“何を怒ってやがるんだ。”
まだ陽の登る前だし、室内の方がずんと暗いため、いくら夜目の利く眸が良い葉柱であっても、相手の表情までは残念ながら見えはしない。ただ、声の調子があまりにあからさまに…聞いただけで“不機嫌です”と言わんばかりに、その細い肩をそびやかしている様が見えるようなほど棘々しくって。確かに情を交わした相手がいたにはいたが、そんなの昔の話じゃないか。今はお前の傍らに居ると言っているのに、彼もまたそれへと…何故だと怪訝がりつつとはいえ、ちゃんと気づいているらしいのに。なのに、どうしてこうまで機嫌を損ねる彼なのだろうかと、そこがどうにも理解し難い。気づいているからこそ突っ撥ねようとしている彼だというのは…何だか矛盾してはいないだろうか? 帰れと言われて此処ですごすご帰るのは、何だか口惜しい気がしたもんだから、
「………やだ。」
こっちも意味なく意固地になって、反抗的にも言い返せば、
「へぇ〜〜〜。そっか、もうその“お務め”の必要はなくなったんだな。」
やはり棘は消えぬまま、今度はそんな言い掛かりをつけて来る始末。
「うじゃうじゃと あっちこっちにガキがいやがるんだろ? だったら確かにもう“お役御免”だわなぁ。」
「何だよ、それ。」
勝手に何言ってやがんだと言い返しかかったっところへとかぶさって、
「うざってぇんだよっ! とっとと帰れつってんだっ!」
「………っ☆」
おおっとォ。いつだって余裕たっぷりで、何が相手でも鷹揚に構えて揺るがない筈のお館様には珍しいほどの激高の模様であり、
「蛭魔?」
此処に至って…相手のお怒りに煽られるように、こちらにまで火がついて感情的になってしまうのではなく。ただ怒っている彼ではないな、何だか様子が訝(おか)しいなと気づく辺りがおサスガな呼吸。大声で言い返すでない、案じるようなトーンの声を掛けて来る葉柱へ、
「………。」
しくじったなと直感し、聞こえぬように“はぁあ”と深い溜息を一つ零すと、
「…お前らには年に何回かの大事な繁殖期だろうが。
顔も見せぬ薄情さでは、却って心配されようからの。」
今度は、打って変わっての出来るだけ険が立たぬような言い方で。戻ってやれやと改めて言い置いたお館様だったそうでございます。
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